トーク:i=

出典: フリー多機能辞典『ウィクショナリー日本語版(Wiktionary)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

物語・引用の私と、一般称の人々の用法は、沙流方言辞典、千歳方言辞典で確認しました。
様似。http://city.hokkai.or.jp/~ayaedu/samawo/samawo02.html
不定人称格(中川さんの用語では四人称)は

  1. 包括的一人称複数
  2. 敬意の二人称(単複)
  3. 引用一人称(単複)
  4. 一般称・受動態形式主語

の四つの用法を持つことが田村すず子さんのアイヌ語概説(すみませんが手元のコピーなので出典はいま出せません)にあります。i=も例外ではないということだと思われます。--Gelasinos 2006年5月7日 (日) 02:47 (UTC)[返信]

お疲れ様です。再検討いたしました。現在(口語)5. に分類されている「(引用文、物語の中で)私を・に。私たちを・に。」は、(雅語)の 1., 2. の「用法」(同じ事柄を別の切り口で表現している)です。すゞ子先生の表現だと「引用一人称(単複)」に当たります。雅語とは日本語でいう文語に近いものですので、改まった表現となる引用は雅語表現になります。物語は本来雅語です。従って両者をマージ(統合)する必要があります。
次に、現在(口語)4. に分類されている「不定称。誰かを。(世間の)ひとを、ひとに。」ですが、私も何かで読んだ記憶はあるのです。厳密に言うと、すゞ子先生の「一般称・受動態形式主語」も、人(アイヌ語で人格をもつもの)ではなく物(無生物)に限られるはずです。知里は、すゞ子「一般称」を「それを・それが、環境・慣用によって相互に了解できる何か」と表現していて、すゞ子「受動態形式主語」の方は、知里「分詞形容詞(一般に過去分詞、稀に現在分詞)」ですが、知里は chi= の用法の項で記述しています。さらに調べると知里も i= に「汎称」を認めていますが、「汎称目的格(感嘆詞の接頭辞)」と限定しています。知里は「吾人をして~しむ」「吾人の○を~す」と漢文風に訳しています。感嘆詞に強く結合(包摂)していて i- と分離表記もされていません。このあたりが落としどころです。
従って、i= の不定称(汎称/一般称)は、現在、自由に動詞・名詞に接辞できるわけではなく、他の意味と単純に並べるのは誤解を招くと思われます。アイヌの人々自身が「昔そういう用法があったのだから、それを進化させて他の用法も認めることにしよう」というなら別ですが、我々が勝手に決められることではありませんよね。アイヌ語には方言のほかに、近代、Japanize されてしまって、文法的に崩壊している部分もあり、そこは注意して別に記述しなくてはなりません。アイヌ自身も文法の崩壊を批判しています。
それから、すゞ子先生のフィールドワークは沙流川流域が中心だったので、アイヌ語の中でも独特な発展をしている沙流方言特有の現象ではないか、と疑ってかかる(というと表現が悪いが)習慣が必要です。もちろん、他の方言にも造詣が深い方ですが、一遍を読んですぐアイヌ語全般に敷衍すると誤ります。Thanks--Midville 2006年5月7日 (日) 05:38 (UTC)[返信]
詳細な検討、ありがとうございます。受動態の形式主語になるのは勿論、主格の場合だけですね。(不定の主語プラス動詞が使役・他動詞化されることで意味内容的に受動態になるというのは、他言語にもあることで、これは文法よりは構文論のような気もするので軽い扱いでいいと思います)ちょっと筆が滑りました。一般・不定称の用法にはかなりの限定がある、というのはわかりました。特殊の方に統合でよいと思います。ただ、特殊という項目名よりはもう少し内容に沿った項目名がよいような気はします。
そうですね。何かもっとよい表現はないでしょうかね。--Midville 2006年5月7日 (日) 08:00 (UTC)[返信]
で、引用一人称の方ですが、これは、物語=雅語はそうなんだと思うのですが、では現代つくられ、話されるアイヌ語のテキストで、口語の物語や、口語の中での間接話法・引用では、どうなっているのか。ぜんぜんi=はつかわれず、en=やun=がつかわれるのか、というので、違ってくるように思います。で、雅語だけということであれば、雅語をまとめて別扱いにするか、(雅語)というような注記をつけて統合するか、という問題もあると思います。というのは、これもちょっと質問が入りますが、雅語・物語でも、包括的一人称複数の用法もあるのであれば、雅語だけわけると誤解を招く気がするからです。--Gelasinos 2006年5月7日 (日) 06:23 (UTC)[返信]
間接話法はこの後ちゃんと調べてお答えすることにして、すぐに分かる最後のご質問にお答えしますが、雅語の一人称には包括的・排他的の対立はありません。相手を含む・含まない私(達)の語彙の発達は、残念ですが sisam 日本人との永き対立と和解・戦闘と平和の歴史の中で生まれたのです。--Midville 2006年5月7日 (日) 08:00 (UTC)[返信]

なお、「特殊」の項の用法はおそらく、一般称と同じで用語の相違だと思います。--Gelasinos 2006年5月7日 (日) 04:43 (UTC)[返信]

いえ、用語ではなく文法(意味と用法と修辞と現在の造語力)の相違です。Gelasinos さんも三回も試行錯誤されているようですが、現在、分類の基準が統一されていませんね。少し提案してみます。
  • まず、第一に雅語と口語は峻別すべきです。日本語でも古語・文語と現代口語を混ぜたらめちゃくちゃになります。口語の中で文語的(アイヌ語では雅語的)表現をすることは両語とも普通です。→用法として記述。
  • 次に、辞書ですから、修辞(綴りかたなど)が異なれば別項とすべきです。修辞の違いは現在の造語能力とか熟語の習熟度を反映しています。
  • 用法が異なっていても意味が同じなら、原則まとめて、用法を書き足す方向でいかかでしょうか。ただし、これはケースバイケースだと思います。
以上のような原則で、これから書き直してみたいと思います。--Midville 2006年5月7日 (日) 06:33 (UTC)[返信]

ネストが入り組んできたのでこちらに。特殊の用法というのは、要するに形式目的語を付加して自動詞的な意味にすることで、その具体的な内容は文脈しだい、ということですよね。不定だと文法用語としてサムシングの意味ですでにあるのでちょっと意味が違ってしまいますね。この場合、特定されないサムシングの用法だけでなく、文脈的に特定されたitの用法もあるわけで。日本語だと単に目的語に言及しないような場合に、アイヌ語だと形式的に必要とされるからi=が出てくると。形式的な目的語とか、そういう方向だろうと思いますが、ちょっと適語が出ません。

まずはウィキプロジェクト アイヌ語、立ち上げおめでとうございます。早速参加させていただきました。本題に入りますが、形式目的語・形式主語というのは、我々(後の世の人間)が世俗的な英語文法等に当てはめて勝手にそう言っているだけで、アイヌにとっては実質目的語です。itak の i(言霊、人間を人間たらしめているもの、kamuy-mosir とアイヌをつなぐもの)や、iyomante の i(アイヌのために大切な魂の入れ物=熊の肉体をささげてくれた kamuy の魂)を「形式」などと言ったら、アイヌにかんかんに怒られるだろうしアイヌ文化への冒涜になってしまいます。少し言い過ぎかな? いや、「特殊」というのも問題ですが。文法論だけで片付けられないものがそこにあります。「神格(用法)」とすればよいのかな。神格は特別な格として大抵どの文化にも西洋文法にもあるので理解が得られやすいかと。中国なら「天」の概念ですね。--Midville 2006年5月7日 (日) 09:49 (UTC)[返信]

ああ、それと不定称、少なくとも四人称は、規範文法としての、活用形というか「格」の名称であって、特定の用法ではないので、ここで出すのは違うと思います。格としての「不定人称格」に「一人称複数」があると、そういう構造なので、レイヤーが違うと思います。--Gelasinos 2006年5月7日 (日) 08:28 (UTC)[返信]

そうなんですか。すごく特殊な文法なんですね。率直に申し上げると「その文法で勉強している人が可哀想」だと思います。(チョムスキー的意味で人類普遍的な)他の言語でも共通の文法を援用できないなんて、悲しすぎます。活用(inflection)とか格(case)とか人称(person)の定義が他の文法と違いすぎます。以前、読者が少なくないと聞いた記憶があるので、なおさらです。あくまで私の率直な感想ですので、もしご関係者でもお気を悪くなさらないようにお願いします。--Midville 2006年5月7日 (日) 09:49 (UTC)[返信]
いや、名称には問題があるかもしれませんが、a= =an i=をまとめて名前をつける、ということ自体は、記述文法や言語学としてはどうかわかりませんが、学校文法・規範文法的には普通だと思いますよ。表層形式の観点から分類した文法カテゴリーが、言語学的な意味上のカテゴリーとずれているのは、橋本文法や学校文法の活用形を見てもよくあることですし。あと、格と言う表現はわたしの表現なので、中川裕氏に責任はたぶんはないと思います。適当で申し訳ありません。要は人称形ということです。主として或る人称に用いられる人称形に別の人称の用法もあるとき、その人称形をどう呼ぶか、というような話だと思うんですが。田村先生も上記概説で「不定人称形」という用語を使っていますし。--Gelasinos 2006年5月7日 (日) 10:02 (UTC)[返信]
論争する気はないのですが、仮に a=, =an, i= にまとめて名前を付けるとしたら、ごく素直に「雅語一人称起源の接辞」か「雅語一人称同一視の接辞」でよいのではないかと思います。それにまとめるなら大事な =a が抜けています。口語で、相手を含む私達を a=, =an, i= で表し、二人称でも相手を尊相で a=, =an, i= と呼ぶのは、「私はあなた(方)を私自身と同じように大事に思っています。だから雅(みやび)な私と呼ばせてください。」という素朴な言い換えから来るものなのですから。--Midville 2006年5月7日 (日) 10:33 (UTC)[返信]
うーん。名称が何であれ、そもそも不定人称形という人称形(語形)がある、という把握自体に批判的であって、雅語一人称の口語における個々の用法があるだけだ、ということなんでしょうか。しかし、だいたいの売られている辞書や入門書はそういう人称形を立てる扱いになってると思うのですが。en=を一人称目的格の接辞と呼べるような意味で、i=をなになに称目的格の接辞と呼べるような、その「なになに称」というものはない、と主張されてるのでしょうか。つまり、たとえば、一人称の語形というものはなくて、その語形の一人称の用法があるだけであり、語形に人称の観点からの名称をつけるべきではないと。ともかく、「雅語一人称起源の接辞」というのは名称というより記述ですし、長すぎるので、活用表のようなものを作る場合使えないと思います。
人称 単数 複数
一人称 k(u)=sikihi c(i)=sikihi
二人称 e=sikihi eci=sikihi
三人称 sikihi sikihi
四人称 a=sikihi a=sikihi


このテンプレートは四人称という用語を使ってしまっていますが、要はこういう整理の仕方をする場合、人称形(語形)に名前が必要だということです。実際、四人称というのを使ったのに特に意味はなくて、いちばん簡潔な名前だったからです。言語によっては、語形に意味上の名称をつけずに「第一変化形」みたいな名称をつける場合もありますし。対案として、どういう方法を考えていらっしゃるのでしょうか。勿論、わたしの知識は基本的に入門書レベルなので、間違いは多々あると思います。--Gelasinos 2006年5月7日 (日) 11:12 (UTC)[返信]

えー、つまり、反論というわけではなくて、今後の編集の方針や既成の投稿の修正にかかわることなので、もう少し突っ込んで見解をお聞きしたいと、そういうことです。--Gelasinos 2006年5月7日 (日) 12:06 (UTC)[返信]

知里真志保に拠れば、次のとおり。(知里「アイヌ語法概説」(1936) p.20)

--引用はじめ

(a)雅語に於て:

  (sing.) (pl.)
I. a-shiki(hi) 我の目 a-shiki(hi) 我等の目
II. e-shiki(hi) 汝の目 echi-shiki(hi) 汝等の目
III. shiki(hi) 彼の目 shiki(hi) 彼等の目

(b)口語に於て:

  (sing.) (pl.)
I.  ku-shiki(hi)   { chi-shiki(hi) (excl.)
a-shiki(hi) (incl.)
II. { e-shiki(hi)   { echi-shiki(hi)  
a-shiki(hi) (honor. a-shiki(hi) (honor.)
III. shiki(hi)   shiki(hi)  

--引用おわり

私はこれがごく普通だと思います(英語、shi→si、chi→ci を除いて)。Thanks--Midville 2006年5月10日 (水) 03:05 (UTC)[返信]

余談だが、こうやって改めて眺めてみると、eci=, e=, ci= は、印欧語の一人称(ラテン: ego/独: Ich、英: I、仏: je(< *ci))と関係があるような気がする。雅語 a= が日本語同様に陳腐化して、自己投影で二人称に転じたように、あるいは、アイヌが遠い昔、印欧語族と隣り合って生活していたときに、彼らが自分を *egi(> eci)と呼んでいたので二人称になった、等。Thanks--Midville 2006年5月10日 (水) 03:36 (UTC)[返信]

了解しました。ここで、そういう形の説明にすることに異議はありません。しかし、そうなると、まあ、一般的なケースで独学しようとした場合に手にとるであろう沙流方言辞典と千歳方言辞典で、不定人称(田村)・四人称(中川)という独立した人称形を立てる形の説明が、便宜的説明という形であれとられていることは事実ですから、ほかの文法用語・説明体系の調整の問題も含めて、明示的なガイドラインをつくることが必要になるように思います。そうでなければ、新しい参加者ごとに同様の議論が発生するでしょう。プロジェクトの議論ページのほうの、用語の調整の問題についてご意見を書いていただけないでしょうか。テンプレートのほうの編集はそちらでいちおう合意をつくったうえで、ということにしようと思います。--Gelasinos 2006年5月10日 (水) 04:49 (UTC)[返信]

なお、「あなた」を「相手」に改めましたが、あなた、だとたしかに、話し手にとってのあなただと文脈上はわかりますが、本来の意味としては読者であるあなたを意味してしまうので、より適切な表現ということで変更させていただきました。--Gelasinos 2006年5月7日 (日) 02:50 (UTC)[返信]

この件は全く異議なく了解です。ありがとうございました。--Midville 2006年5月7日 (日) 05:38 (UTC)[返信]
おっと、同時にこのノートを編集していて Gelasinos さんが先に保存して編集競合が起きたようです。--Midville 2006年5月7日 (日) 05:38 (UTC)[返信]